昭和41年12月13日 朝の御理解
昨夜の御理解、椛目の上に、神様の特別のお働きを頂いておる。特別なお働きをほんとのおかげに現していく為には、私達はいよいよ実意丁寧な信心を、させて貰っていかなければ、折角のそのおがげが、おかげにならないと。例えて今度秋永先生達、高橋さん、文男先生三人が、京都へ御神具のこと、内殿関係の事やらで参りました。もうほんとに神乍らなおかげを頂いてきた訳です。頂いて来ておるのじゃない、その神乍らなお働きを、見せて頂いております。
例えて云うならば、一番初めに京都へ参りましてから、あの白金細工を致します、御戸前の金具なんかを作る所へ参りましたら、朝早う御座いましたから留守だったけど、何処へ行ってもおられるかと思ったら、教会に朝参りをしておられると云う所だった。おりなさらんとは予期もしなかったこと。それから装束屋に参りましたら、そこも金光教の本部の青年会の幹部をしておられる方で、大変熱心な御信者さんであったと。
紹介して頂いたとこは、そこのお父さんの家だったんです、大体は。ところがそこが休んでおられたかなんかで、そちらへ行ったところが、そんな馬鹿なというそんな中に。例えば汽車ん中では汽車ん中で、あの元はシンシュウカイ、金光教シンシュウカイと云いよったのが、今度、天光教と云う別派じゃなくて、これはもう独立の、ま宗教ですね。けどもやはりあの教祖の神様の御教えを元にしとるとしか思えないその、この、こんな雑誌を一冊貰って来て。
天光教伸展と言うのを貰ってきて、それで丁度三人欠けた所へ一人その、そこで半年間修行したと云う女の信者さんが、色々まあ話しかけてきて、そういう話を聞いとった。もうとにかく行きがけの汽車の中なんですねえ。そしてもうその晩一人で帰って来ておりますから、私共が御本部から帰ってきた晩にもう帰って来て居るわけですね。そして昨日、報告に参りましたんです。
ですからそういう例えば、働きを頂いて居りましてもですね、働きを頂いて居っても、ほんならそれが果しておかげになるかならんかまだ分からないでしょうが。それは、こちらは信心、こちらは実意丁寧の、いわば信心でそれを受けるのですから。何時も頂きます様に、どんなにそれこそ、降る様なおかげが、椛目の上に現れておりましても、それを受け止めるのは、椛目全体の、特にこの御造営の事に当たっては、椛目全体の信者の私、信心の如何の依ることだと。
勿論私の信心を、中心とすることでございますけれどもね。そこで私は思うんですが、今こそ御造営成就信心生活運動と云うような、私は運動がお互いの心の中に、家庭の中に、一大展開を起こしてこなければならない。いわゆる運動が起こって来なければならない時は又とないのではなかろうかと。お互いがほんとにこの、信心生活運動と、もう一切が御造営の為に、一切が御造営の為に焦点を置いてよいと云う時に、果してお互いの日常生活が、御造営成就の為の修行になっておるだろうかと。
それにどれだけ、私共が、奉賛させて頂いておるだろうか。生活全体が、その為の奉賛の状態になっておるだろうか。これはもう、改めて私は、御造営成就信心生活運動と云う、この展開がですね、なされてくる、おかげを頂かなければならないと云うのが、しきりに致します。ところが、私共の信心が停滞致しておりますと、修行がしろしゅうなります。不平不足に見えてならないことが不平不足に見えて参ります。
もう恐ろしいことです。私共があれも足らん、これもまちっとどうかと思う、そう云うことが私は見えたり聞こえたりしてくる時にはです、いよいよ自分の信心の低下を悟らして貰ってですね、おかげを頂いていかなければならんと同時に、そこからです、御造営成就信心生活運動が椛目の中で起こらなければならないと。今日は十三日会でもございますので、ほんとに神様の悲願にお応えさせて貰う根本のところの信心と云うものが、私は、ほんとに実意丁寧に為されておるだろうかと。
例えば、ほんなら京都行きのことを聞いただけでもです、神様の特別な働きを受けておると云うことは分かるんです。けれども、その後に感じるものは、私はどうもそれではおかげは受けられまいと云う気ばっかりする事でございました、話を聞いてから。結局そのそれだけのそこまでの働きを頂きながらです、それから先を私共の信心の目の粗さと云うか、実意丁寧を欠いだ生き方仕方がです、おかげを漏らすと云う事になれば、神様に対して相済まんことだと。
私は、昨夜から、その事ばっかりを、ここに頂かせて貰い、その事ばっかりをお詫びさせて頂いておる訳でございますけれどもね。お互いの信心が、修行にしるしさをもう感じるようになったらもう駄目です。もう信心が停滞している時です。もうほんとにそうです。どうでも、椛目の人達は、只おかげの花のところだけに目をやって、それを実が実るおかげを頂いていない、今迄が。それには、いろんなところに実意丁寧の信心が欠けて居るからじゃなかろうかと云う風に思うのです。
どうぞ。